はてなブログに「お題」というものがあるのは知っていたのだが、これまでなんとなくスルーしていた。
書きたい時に、書きたい事を書く。
そういうスタンスでブログをしているが、複数のブログを所持していると書きたい事の半分も書けていないのが実状。
そんな中でお正月にふと目に止まった、今週のお題「2024年にやりたいこと」。
やりたいことといえば「有る」といえばあるし、「無い」といえばない。
昨年の今頃はやりたい事だらけで、あれもこれもと夢想していたものだが、出来たこともあれば出来なかったことも。
今はただ、何かをやりたいというよりも募金が出来る人になりたいと思う。
募金
このような事をブログ記事にするのははばかれるが、このお題を通して繋がるものがあればという思いから書いてみているところだ。
今回の令和6年能登半島地震において、現地の状況が掴めない中スマホから得るニュースに心を痛めた。
これまで募金活動やボランティアをする人をすごいとは思っても、以下の理由から私は疑った目でそれらを見ていた。
- そのお金が本当に当事者に届いているのか?
- 支援される事が当たり前の構図を作ってしまってはいないか?
- 募集を掛ける団体の利益になっているのではないか?
- その団体は信頼に値するのか?
- 特定の偏った思想を持った団体ではないか?
- 詐欺ではないのか?
- 純粋無垢に募金する人達の裏で私腹を肥やしている人がいるのではないか?
- 節税のために寄付しているだけではないか?
- ボランティアをした自分に満足感を得ているだけではないか?
こういった疑念が私にはあり、募金した意味があったとこの目で確かめられないのなら最初からしないという選択をとってきた。
ボランティアについても、「満足感」という見返りを受け取る事が嫌らしいものだとも思っていた。
それよりも、手の届く範囲で誰かの力になれたら、多くの人がそう出来たら、それが連鎖して世界は豊かになるのでは?まずは自分の身近な人からではないのか?と。
歳を重ねるにつれ、人間関係もシンプルになり、益々その傾向は強まった。
私の穿った見方だが、ふるさと納税も皆リターンがあるからやっているのだろうと考えていた。
少しでも得をしたい気持ち、損得感情は私にも多いにあるにも関わらず、他人のそれらに触れるとチクッとどころかグサリと傷むものがある。
そんな疑念が拭えないのなら、最初から関わらない方が得策だと思ってきた。
人類について
年の後半、人間とはなんて愚かで浅ましいものなのだろうと思う出来事が身の回りでも起こった。
時に環境問題などをあげ、地球にとっての人類不要説を語る人が居る。
この地球が創り出したものである以上、人類が存在するのも地球の意思で行われており、歴史の一過程に過ぎないと思って私は生きてきた。
しかしこの時ばかりは、地球に人類が居なかったらどうなるのだろう?と思考を巡らせていた。
結局はこれまでの考えに立ち返るだけではあったのだが。
今回の出来事
大晦日にうたた寝をしていると、大火災の火の粉が風に煽られ、私はそれに包まられて息絶え絶えになる夢を見た。
電話がなり夢の途中で目を冷ましたが、晴れない気持ちのまま年を越した。
そんな中で目にした今回の震災の様子。
X(ツイッター)で募金をしたと報告する人達。
ポイントで募金したというポスト。
その中にはきっとお年玉をもらう歳の子もいるのだろう。
募金とは無縁だった私だが、唯一想い入れのある建物再建の募金を本当に少額だが近年行った。
その時に自分は見返りを求めていただろうか?
募金をしたという事実に多少なりとも満足感を得たかもしれないので、それが見返りといえばそういえるのかもしれない。
中には震災や空港での難をギリギリ逃れた人が、ツイてるといわんばかりの書き込みをしており、そういった文章にまた胸が痛む。
やはり人は自分の身に災難が起きなければラッキー、自分でなくて良かったと安堵する生き物なのかと落胆もしたが、これまでを振り返れば自分も全くそうではないかと余計に落ち込む。
募金の是非を問うて結局は無関心でいる私のような人間が、一番酷いのではないか。
Xで次々に流れる募金の様子と、その時の自分の心情を重ね合わせ、私に何が出来るのだろうと思った。
ポイントで募金が出来ることを知り、ごくごく僅かな額の募金をしたわけだが、自分にもっと余裕があったらと思わずにはいられなかった。
お金が全てではないが本気で誰かの力になりたいと思ったとき、共感以外の方法で積極的に関わるには、いかんせんお金は大事だと身にしみた。
まとめ
この記事は1月10日に書き留め、下書きにいれたままにしていたもの。
募金を出来る人になりたいと言いながら、政府が発表した子育て支援金の医療保険上乗せには納得がいかないのだから、それとこれとは話は別とはいえ複雑な心境だ。
個人的な心情を吐露する記事というのは、時に自分を縛り不自由さをもたらす。
しかしながら、いつか振り返った時にこんな事を思っていた自分をどう感じるのか、そんな未来にこの記事を託そうと思う。